12日に奈良・大阪・熊本の4人と合流し、今回の旅のメインである利尻・礼文の旅は利尻水道をシーカヤックで渡ることから始まった。水道の幅は約20㌔㍍、北東に流れる1~1.5ノットの潮流があるが怖いのは風と波。予報では波高1㍍、南西風4m/s 以下の好条件、行かない手はない。眼前に利尻山の鋭鋒が見えているのも心強く、稚咲内から早朝の凪の中を漕ぎだした。5時間弱かかって利尻島沼浦につけ、M氏とY氏との再会の後さらに沓形まで進んでキャンプ。利尻・礼文の旅は好調な滑り出しとなった。
翌13日は雨の中の利尻山登山。キャンプ地の沓形から山頂を踏み、鴛泊へと下った。
14日はレンタサイクルで島1周のサイクリング。この日は晴れたが風が強く、15日も風待ちの停滞。沓形のキャンプ場は居心地がよいのがありがたかった。
16日、朝起きるとまだ8m/sほどの西風が吹いていた。風は次第に収まる方向にあったので、ゆるゆると支度をして午前6時頃から漕ぎだす。磯波が立っていたので、最初それに向かって直角に進み、風浪が一定になるあたりから北西に進路を転じた。わずか10㌔㍍
知床はその自然の厳しさから人間の干渉をまぬがれてきた日本では数少ない地である。その荒々しい海と海岸に憧れて、2006年8月にウトロから相泊まで旅しオホーツク海側は険しく、海岸線にそそり立つクンネポールや五湖の断崖。海へと一気に落ち込むカムイワッカやに圧倒される。知床岬の番屋跡は柱だけが立ち残り、野に果てた獣の骨のように風にさらされていて、この地の営みの厳しさを偲ばせる。太平洋側では、泡立つ波に翻弄されながら向かい風にさからって漕いだ。それでも、お花畑を見にペキンの鼻へ登ったり、鮭を釣り上げチャンチャン焼きを作ったりする余裕は、力のあるメンバーのおかげである。
2回目は2013年7月、逆コースをとったが、前回とはうって変わったベタ凪。「これは琵琶湖より静かだ。」などと言いながら、海岸線をなめるように漕ぎ巡り、前回は見られなかった入り江や奇岩を探った。カシュニの滝の滝の水をパドルですくえるほど岸辺に寄って進む内に、通り抜けのできる洞窟に出会えたのも、おだやかな知床の恵みのように思える。いずれも2泊3日の航程で、海岸にキャンプしながらの旅となる。夏、グマやキタキツネ、エゾシカはあちこちにいる。食糧は臭いの出ないように梱包して食事の場所と同様に寝る所と離すのは常識。何であれゴミなど決して残してはならない。これは人と獣が互いに安全でいられるためである。
知床の山の中に何があるのか知りたくて、カヤックとは別に雪の残る春にテレマークスキーを駆使して半島の主脈を岬まで行ったこともある。
いずれにしても知床の手つかずの自然の魅力と迫力は、カヤックや徒歩という頼りない手段で旅してこそ、より強く感じられるのではなかろうか。この地に一歩踏み入ると、わが身が小さく思えて、自然を守るなどという尊大な気にはとうていなれない。自分の痕跡を最低限に留めながら密やかに旅するだけである。
天塩川は北海道の名河川である。名寄から河口までの150㎞をシーカヤックで下った。その間に堰堤は一つもない。もっと上流域からとも考えたが、堰堤も多く、舟も変えなければならないだろう。
8月20日の夕方には翌日の宿泊予定地「びふか温泉」まで回送用の車をまわし、食糧等を買い込んで出発準備を整えた。
1日目
早朝より漕ぎ出す。川の流れは速く、川幅いっぱいに流れていて滔々という形容がふさわしい。早瀬やテッシが諸所に現れるが、これが単調さを破ってくれて楽しい。テッシの岩が現れることもなく、かといって荒瀬になるほどでもなく、程よい水量だったのだろう。流れが手伝ってくれて正午を待たず、びふか温泉に着いてしまった。いったん上陸して車を回送し、さら20㎞下流の「天塩川温泉」まで下ることにした。午後も快調に下り、温泉に入ってから河畔でキャンプ。50㎞ほど漕いだことになる。
2日目
未明に起き、車をゴールの天塩まで回しておいてから出発。尺取虫方式より最初からこうしておくほうが、よほど効率がよかったように思う。瀬はめっきり少なくなるが、流速はあまり変わらないようだ、瀞場のように見えても、休憩で河岸に上がるとその速さが目に見える。松浦武四郎が北海道と命名した記念の地で大休止。対岸を宗谷本線の1両列車が走る。この日は歌内橋上手左岸の気持ちの良い河原に上げてキャンプした。今日も50㎞漕いだ。
3日目
早朝、出発。流れはしだいに緩くなり、天塩大橋あたりでほぼ止まる。前方に利尻の鋭鋒が見えるのを喜んだ間もなく、大橋手前3㎞あたりから強い向かい風が吹きだした。橋の右岸に着け休憩をとる。行くかやめるか少し迷ったが、残りわずか18㎞である。「行こうや」というⅯさんの一言で、逆風の中を漕ぎ出す、川幅が広く遮るものがないせいか、うねりまで起きている。「海と変わらんじゃん」と悪態をついても耐えて漕ぐしかない。オトンルイ発電所の風車が近づかず、遠ざからず、わずかな距離に悪戦苦闘した。山も海も川も、なかなかただでは帰してくれないものだ。右手に砂丘が現れる。天塩の流れが運んできた膨大な量の土砂が造った砂嘴に違いない。川底も浅く、パドルブレードが砂を噛む。この辺りまで接岸できる場所ははほとんどなかった。最後の天塩河口大橋を凱旋門のようにくぐると、河口公園のカヌーポートまで3㎞、風に耐えて漕ぎぬいた。
北海道開発局の天塩川地図が参考になるhttps://www.hkd.mlit.go.jp/as/tisui/vkvvn800000018jy.html
天塩川の旅を終えて、私たち夫婦はゆっくりとキャンプをしようと朱鞠内湖に立ち寄った。朱鞠内湖は昭和18年に雨滝川を堰き止めて造られた。完成当時は日本一広い人造湖だったそうで、戦時下の過酷な労働で生まれた湖面は、自然と静謐に今は満たされている。
湖をカヤックで1周するつもりだったが、目の先の藤原島と陸地を結ぶ線より先は立ち入り禁止だと管理人から知らされる。「そこまででも2㎞もあるし、南風が吹いたら戻れ
なくなる。過去にもカヌーがひっくり返って死んだ人もいる」とのこと。天塩川を150㎞、秒速10数mの逆風を漕いできた我々でも、聞くだに恐ろしい話だから、従うしかない。「チェックアウトは午後3時、昼過ぎには湖畔のいいサイトが空くよ」というアドバイスを胸に、テントサイトを回ってみる。みんな車横付けでテントを張っている。湖畔近くで昼食をしていると下のテントが撤収をはじめ「ここ、いいですよ」と声をかけてくれた。ありがたく、後を使わせてもらう。
午後からカヤックを下ろし、許可範囲内を漕いで回った。盆栽島と陸地の間は地形図では湖水になっていたが、現状は陸つづきで通り抜けできない。隣の兎島もつながっていたから、年月を経て土砂が堆積したのだろう。風はなく、鏡のような水面に岸辺の木立が映る。その中に立つ舎利幹をさらす枯れ木が孤老を思い起こさせ、いつまでこんな旅がしていられるのだろうかと感傷を誘う。
夕食を終え焚火の小枝に火をつけた。ほろ酔い眼に炎が揺れ、朱鞠内湖の夜は静かに更けていく。晴れやかな日の下の立ち枯れより、闇の中で燃え尽きる火のような死のほうがよいか、ふとそんなことを思った。
2014年の夏、新日本海フェリーの船旅で小樽に着き、美国町の小泊で車中泊した。翌早朝、目の前の海水浴場から漕ぎだし、西に向かって積丹岬、神威岬を経て珊内までの予定だったが、最後に強い向かい風と風浪にはばまれて珊内直前の窓岩までとなった。そびえたつ岩壁に「女郎子岩」などの岩塔、岸辺を彩る緑と花々。ときおり差しこんでくる太陽の光に映える積丹ブルーの海の色はここだけのものだろう。
2018年のメンバーは7人、私にすれば大人数
4年前には東から西に回ったが、今回は逆である。風や海流を味方にしたかったなら、このほうがよいと思う。珊内から美国まで、50数キロを2日で行くので楽な航程。回送の車など、すべて整えてから泊村の盃キャンプ場に泊まる。入口に温泉もある上、無料なのはうれしい。
1日目
珊内まで移動して朝凪の内に漕ぎ進む。前回の終了地点のノットの舟揚げ場で休憩してから窓岩へ。柱状節理の岩島でその一部が抜け落ちて、窓のように貫通していた。陸からは見えず、前回も気づかなかったが、これで納得。
シシャモナイの滝も、これまた海を行く者だけが見られる景観である。さらに進んで西の河原に上げた。「にし」の河原と思っていたが、どうやら「さい」の河原と呼ぶらしい。それにふさわしい雰囲気ではある。
次の目的地、神威岬を目指す。風は予想通りの追風で舟はよく走るもののウサギが跳ぶほどになった。いったん岬の袂の港に上げて休憩。気合いを入れ直して、毛羽立つ海へ。
岬の突端は荒れるのだが、神威岩との間が通られたのは幸運だった。バシャバシャの波を漕ぎ抜け、風裏に入ると嘘のように穏やか。えぐれた断崖下のゴロ石の浜に上げて休む。
神威岬の遊歩道までの踏み跡は、草におおわれて消えている。そこを登り、遊歩道に出ると立入禁止の看板。どうやらいけないことをしてしまったみたいだ。
岬の灯台は、イベントで開放されていて、中に入ることができた。海上保安庁の人がいて、「ずっと見えてたよ、風速は20m/Sほどだったけど、よく来たな」みたいなことを言ってくれた。灯台は螺旋階段と照明設備だけのシンプルな構造だが、光は36キロ先まで届くとのこと。新日本海フェリーで小樽へ近づくとき、この光を見たことを思い出す。
この日は予定通り野塚の浜に上げ、野営場にキャンプした。多くのテントが張られていたが、ここも無料で、トイレ、炊事場もある。
2日目
夜中じゅう波の音がしていた。未明に起きてみると磯波が立っている。女房と2人だけだっ
たら、多分やめにしていただろうが、みんな行く気満々である。巻いて押し寄せる波の狭間をねらって漕ぎ出した。沖は穏やかである。磯波は風ではなくウネリのなせる業なのだ。
しかし、これだけウネると着岸できる場所も限られる。そう思いながら積丹岬へ。岬沖では案の定、波にもまれた。こんなときは各自がそれぞれに身を守ることになる。言わば親不知、子不知の状態だが、仲間がいるのは心強い。
このウネリの中でも島武意の浜に上げられたのはありがたかった。おまけに、北海道旅行中のNさん一家にも会えた。運のいい日というのはあるものなのだ。
次は幌武意の港で少し休んだ。あとは右手の断崖を眺めながら漕ぐ。黄金岬と宝島が見えてはいたが思いの外、時間がかかった。海水浴客でにぎやかな美国の浜に着いたのは正午過ぎ。
車回収組と後片付け組に分かれて終いをする、時間がかかったが、一切終えてMさんの「ふくろうの宿」へ。Nさん一家も合流してバーベキュー宴会で打ち上げた。
釧路川はその水源である屈斜路湖から下りたいと思う。そうするにはシーカヤックは無用の長物で、もっと小回りの利くリバーカヤックのほうがふさわしい。それでもカヤック通行禁止の箇所もあるそうだから、すっきりとはいかないようだ。
そういうわけで、我々は塘路湖の元村キャンプ場から細岡のカヌーポートまで、ガイドツァーのコースを下ることにした。湿原の中を蛇行する釧路川のゆったりとした流れに舟をまかせ、鳥の鳴き声を聞きながら下るのはなんとも気持ちのよいものだった。最後は釧路本線に乗って帰りたかったが、効率を優先させて、回収用の車を手配しておいたのは、少し残念な気もする。
屈斜路湖は日本最大のカルデラ湖で周囲は57㎞もある。その湖岸にはいくつかの温泉が湧き出でており、それをシーカヤックで回ってみた。
和琴共同浴場、池の湯、砂湯と訪ね、最後にコタンの湯に入った。あまり手入れされてなかったり、閉鎖されたような雰囲気もあったが無料なのはうれしい。波も風もなく、湖の漕行は何の不安もない。
本当は中島に上がって、山に登ってみたかったのだが、上陸が禁止されていてはそれはできない。
ほど先の礼文の島影はかすんで見えなかったのだが、その輪郭がはっきりとしてくるとパドリングも力強くなる。2時間半で礼文島南端の知床の村はずれに着けたが、この日はビールを求めて宇遠内まで漕ぎ進んだ。
17日、礼文島は船泊に上げて終わる予定だったが、今はそこからフェリーは出ていないとのこと。図らずも香深の港まで漕がなければならなくなってしまう。私の失敗で結果と
して礼文島1周になってしまった。礼文島の西海岸は、荒々しい岩壁で構成されていてこの風景を海から見られるのはカヤックの特権と言ってもいいだろう。あいにく霧が島の上部をおおっていたが、それも神秘的で悪くない。澄海やスコトンの岬から眺めた寒々とかすむ景色や首筋を洗っていく冷たい風、金田ノ岬のゴマアザラシの群れとの出会いは、北の海を漕いだ証のように思う。最後に東海岸を南下して香深の港にカヤックを上げると
北海道を旅行中のNさんご夫妻が迎えてくれ、私たちの利尻・礼文の旅は終わった。
春に山スキーに来て、ウィンザーホテルから洞爺湖の中島を眺めた時、カヤックで島に渡り、山に登ることを思いついた。調べてみると観光船も出ており遊歩道も整備され、最高峰がトーノシケヌプリ(西山)とのこと。
洞爺キャンプ場に泊まり、翌6日早朝に漕ぎ出す。曇天無風の好条件のもと、左手に昭和新山、有珠山を見ながら快調にカヤックを走らせる。島に近づくと岸辺にはエゾシカが跳ねる。中島に着き、観光船の船着き場の手前の浜に上げたもののまだ誰もいない。始発便の到着を待
ち、入山名簿に記入して、ゲートを開けてもらう。早く出てきたものの、結局は8時半近くの入山になってしまった。
遊歩道はよく整備されていて、木くずの道のクッションが心地よい。峠様のところから左にとり不明瞭な踏み跡をたどる。なかなかの急登で、ピンクのテープやロープがあるものの、廃道に近い状態であった。最後に道を見失って、わずか薮を漕いだ後にトーノシケヌプリの頂上へ出た。ブッシュにさえぎられて、頂上からの展望はあまりよくない。3等三角点がある。
遊歩道までもどったのち、さらに北へ進んで大平原と名づけられた開けた場所に出た。小さな島の大平原とは、なかなか皮肉っぽい。ここで小憩してから、島の東岸を周回する道を歩く。湖岸の道は緑濃く、洞爺湖の水面の輝きを垣間見ながら行くのは心地よかった。
帰路には西岸を回った。やりたいことをみんなやって、思い残すことなく島をあとにした。
東北の海は三陸海岸を1度漕いだだけだが
300キロ近い距離は半端ではなく、震災の爪痕を見る旅だった。
1日目
松島から漕ぎ出す。 三陸海岸へ向けて北上の海旅。どこまで行けるかは、天気と体力次第。 初日は日本三景の松島から石巻湾を横切って田代島まで。
松島を出るまでは順調だったが、釜石湾の横断で逆潮とアゲインストの風に悩まされた。 田代島の港はキャンプができない。そう告げた村の若い人が親切に丘の上のキャンプ場まで車で運んでくれた。この島は猫の島と知られているようで、たくさんの猫を見た。テントにできた爪痕はよしとしよう。
(事前に車を1台女川へ配送しておく)
7日目
今日からは女房と二人になる。唐丹湾を漕ぎ出し、尾崎を回る。鋭く尖った岬は、わずかなウネリや風で難所になるが、この日は、ウソのようにおだやかだった。昨日、荒天を、予測して1日待った甲斐があったというものだ。
でも、そうは簡単に行かせてくれないのが海旅。難所はこの先の三貫島だった。休憩しようと寄った岸辺は波が騒ぎ、突風が渦巻いていた。飛沫が飛びパドルがとられるほどの風だったから、瞬間的には20m/Sはあっただろう。ほうほうの体で対岸へと逃げた。
次は両石湾を渡った大釜崎の逆潮。漕げど進まぬ状況、パドルは重く、景色は変わらない。手を止めるとたちまち目的地から離れていく。こんなときは、岸に上げて待つのが一番なのだが、時間がそれを許してくれない。
今日中に御前崎を越えて山田湾を渡っておきたかったからである。でも、とうとう力尽きてしまった。霞霧ヶ岳の東にあたる海岸線で泊まるのに適した場所を探しながら行く。 最後の難は上陸にあった。砂利浜は、ウネリが入ってなければいい上陸地なのだが、白い波が立っている。慎重に乗り上げ場所を観察した後、一気に突っ込んだが、岸辺でグズグズしている内に、次の波にカヤックがさらわれ、足を払われた私はつんのめって倒れ、女房は向こう側で下敷きになっている。そばで見ていると大笑いものだろうが、当人たちは必死である。なんとか浜にカヤックを引きずり上げて、一段落。奮闘の甲斐あって、とてもいい泊地を得ることができた。テントを張って、ビールを飲んで、月が昇って星が降る。いい夜だった。
8日目
最終目的地の宮古までわずか。この日は曇天で終日静かな海。潮流も感じるほど強くはない。昨日故障したラダーも修理した。 山田湾口を横切り、トド崎と快調に漕ぎ進む。トドとは魚扁に毛と書く。毛のある魚?うまい当て字だ。何の漁だろうか、たくさんの小舟がすごいスピードで行きかう。閉伊崎までは沖を行く。閉伊崎は碁石海岸に似た美しい入江だったので、岩の間を漕いでみた。
霧で見えない岸を目指し、見当で漕いで行くと白い岩の浄土ヶ浜が見えてきた。遊覧船が出入りする入江に入り階段の岸に着ける。
あと1日、北山崎を越えて行く考えがふと頭に浮かんだ。満腹のくせに最後のデザートを欲しがっている。その時、激しく雨が降りだした。これが未練を断ちきり、8日間の海旅の終わりとなった。
本州等を除いて日本で一番大きな島、佐渡島をシーカャックで一周した。メンバーは女房とIさん。カヤックはフジタカヌーのノア(2人艇)と ポセイドン。足は速くないけど安定性はいい。
8月2日に長岡の花火を見てから翌3日、フェリーで新潟から両津へ渡り、準備を整えて赤泊を起点に漕ぎだした。その日は宿根木の先まで。泊はすべてテント。
4日は沢崎から真野湾の口を横切って稲鯨へと渡った。七浦海岸を行くまでは良かったのだが、相川へは逆風と波に悩まされた。相川では買い物と温泉を楽しんで、夕方に千畳敷まで進んでテント泊。
5日は尖閣湾から外海府の海岸を漕ぎ進んで大野亀から二ツ亀へ。夕陽が格別綺麗だった。
6日は弾崎を回って姫崎まで両津湾口を横切る予定だったが、両津で温泉と食事をしたいという希望を容れて寄り道をした。
最終日の7日は、姫崎を回って前浜海岸を漕いだ。海岸線が単調で一番しんどい行程となったが、5日間100数十キロメートルを漕ぎ抜いた充足感を覚えながら赤泊港へともどった。
Ⅿさんの誘いで湯浅湾のシーカャックに行った。湯浅湾内にある苅藻島、鷹島を訪ね、鷹島の浜でキャンプ。スタートする栖原海岸には、ショップがありガイドツアーやカヤックのレンタル、駐車場やシャワーも完備していて初心者でも安心である。
我々は11名で、自艇のほかにタンデムを3艇借りて正午過ぎに出発。右前方からの風を受けながら少し波立つ海原を漕いだ。 ガイドツアーの一行と入れ替わるように苅藻島に上がる。この島の最高点までは道があって、そこを登ると広い展望が得られる。また、島の北端には洞窟があり、カヤックで通り抜けができる。
鷹島の南側のゴロタ浜に上げてキャンプ。私と女房はカヤックで釣りに出たものの、ベラとチャリコしか釣れず、宴会に彩りを添えることはできなかった。浜では異臭がしていたので、聞くと海亀の死骸があるとのこと。一杯飲んで酔った勢いで、そいつを運んで荼毘にふしてやった。
宴会の後に、エギングで小さなアオリイカが釣れたので、刺身で食べた。昇天した海亀のお礼だったのだろうか。
Iさんの新艇の進水式にお付き合いしての1泊キャンプの海旅。
布浜のカキ工場の駐車場に断って車を停めさせていただく。3分割の舟を組み立て、シャンパンをふりかけて、新艇を祝う。処女航海は曽島と鴻島の間を抜け、頭島へ。外輪の浜に上げ、昼食を兼ねて島内散策。「ふみ」のお好み焼きを食べ、タヌキ山を越えて、Rebomのテラスで海を見ながらパフェ、優雅である。
泊り予定の大多府島亥の子キャンプ場は荒廃していて草茫々。しかたなく南岸の猫の額ほどの浜に上げてキャンプした。流木で焚火するいい夜になった。
翌日は、ハンセン病療養施設「愛生園」のある長島を回り、カキ筏のならぶ虫明湾を漕いで帰った。
毎年、夏に長男家族とキャンプに行っている。一昨年は仙酔島、昨年は大久野島、今年は犬島へ。宝伝港から渡船が出ており、女房、嫁、孫たちはそれで行き、私は息子と2人で宝伝海水浴場からカヤックで。犬島までは一漕ぎの距離なので、途中で渡船の来るのを20分ほど待ったが、その間にかなりの距離を流されていた。それは、はっきりと軌跡に現れているので、やはり瀬戸内海の潮は速いようだ。
犬島では自然の家に宿泊。夜は天体観測に参加し、望遠鏡で月の写真を撮ってもらった。長男家族とのささやかな夏の幸せである。
犬島はベネッセの手が入る前からカヤックで行っていたが、今はアートの島として訪れる人も多くなっている。カヤックツァーで訪ねるにはいい所である。さらに豊島、直島とつないで、アートの島巡りというのも計画してみたいと思った。
瀬戸内のアートの島のうち、直島、女木島、犬島はカヤックで巡ったが、豊島だけが残っていた。Iさんを誘って出かけてきた。
沼の港から出て、豊島に渡り、豊島で一番高い壇山に登って、十数か所あるアートを見てまわり、どこかでキャンプ。帰りは島一周して、例の産廃処理地を見て帰るという、いつもどおりの欲張りプラン。
全てかなったので、充実感いっぱいの海旅となった。標高340mの壇山へはレンタルの電動自転車で登った。これがなければ、島内一周も到底無理というものだ。
海水浴場だったとち浜でキャンプした。浜の端に筏があって、ちょうどいいウッドデッキ。この上での宴会は、貧乏な我々にとってはグランピング気分。飲みながら眺める夕陽の色移りは、この島の最高のアートのように思えた。
考えてみれば、我々の旅は地表に刻む一瞬のアートかもしれない。そんなことを思わせてくれた島、美しい海だった。
笠岡諸島には大小31の島があり、そのうち、高島、白石島、北木島、真鍋島、大飛島、小飛島、六島の7島に人が住む。
この島々をシーカヤックで巡った。出発は神島だが、ここも元は島である。干拓が進んで平成2年には完全に陸続きとなった。断りを入れて神島神社前の路肩に一晩車を停めさせてもらう。
差出島と高島の間を漕ぎ抜けて梶子島を目指した。梶子島は無人島だが岡山県青少年の島としてキャンプ施設がある。上陸するには許可がいるようだ。大飛島、六島と上陸して回り、猫で有名な真鍋島へ。さらに漕いで白石島の楠海岸に着け、ここでキャンプした。
翌日は、天気が崩れかけていたので、早朝から漕いで、帰路についた。主だった島には立ち寄ったつもりだが、駆け足すぎた。次回は、山登りや釣りなど織り込みながら、ゆっくりと訪ねたいものだ。
倉敷の沙美海岸から漕ぎだし、塩飽諸島を一回りする海旅。途中、広島の最高峰である王頭山に登り、塩飽本島をレンタサイクルで一回りするという計画である。
潮の湧く島である。潮回りを調べ、計算して出かけた。大雑把に言うと午前中は西から東に、正午あたりから東から西に流れるということだが、おおむね上手く潮に乗れて、逆潮のストレスは感じなかった。キャンプ地の海水浴場(ほぼ閉鎖)で水浴できず、やたら暑かったこと以外に誤算はなく、脱水状態ながら、王頭山の登山もできた。本島も電動自転車のおかげでゆっくり楽に1周できた。十二分に満ち足りた海旅である。
人間魚雷「回天」の基地があった島、大津島へシーカヤックで行った。2人艇3隻の6人。
3日9時に周南市の長田浜から漕ぎ出して大津島北端の近浜の小さな漁港に上げた。この間、わずか3キロ、上陸してビールで乾杯後、7人塚やガマの原など近くを散歩してまわる。
無人島の五ツ島には昼過ぎに着き、きれいな浜の木陰で、目の前に広がる景色を眺めながら昼食宴会。一升瓶も空いたので、ほどのよいところで切り上げ、馬島へ向かう。
カヤックは馬島西側の護岸にわずかに張りついた小石の浜に上げた。ふれあいセンターにチェックインして回天記念館に行った。中からは開けられないような魚雷艇に乗せて二十歳前後の若者に「死んでこい」などということは、いくら美辞麗句や大義名分で固めても、決してさせられることではないだろう。本人の意思だ、発意だなどとの言い訳が、命令権者に許されるのか。館を出ると緑の木々が風にそよぎ、青い空と海が広がっていた。こんなおだやかな景色の中で、繰り広げられた陰惨な日々を知ると胸のつまる思いがする。
翌日は自転車を借りて島見物のサイクリング。島の学校は閉鎖され子供の姿はない。島内を巡るコミュニティバスを待つ人と話したり、枇杷をいただいたり。ここも高齢化、過疎化が進んでいるが、ゆっくりとした島の時間と暮らしがある。
帰路は、潮と風に助けられて順調。1日10キロほど漕ぐのも楽でいい。今回の海旅は、テーマは少し重かったが、いっしょにいるだけでも楽しいメンバーと天候に恵まれた。
23日午後、荘内半島の船越の港脇(数台分の駐車スペースあり)の砂浜から漕ぎ出す。 5㌔㍍ほどの距離だから急ぐこともない。ほどなく粟島の西浜に着いた。艇を上げておいてから島内見物。浮き玉を細工した作品が面白い。ここもアートの島なのだろうか、見どころが多い。ル・ポールというしゃれた宿泊施設もある。でも我々が泊まるのはテント、西浜に戻ってささやかな宴会。 24日、城ノ山に登る標高は222㍍に過ぎないが正味の標高差で急登続きである。道はよく整備されていて階段も多い。30~40分の登りで山頂に着いた。名のとおり城跡で360度の展望が素晴らしい。島は洋上の山である。 帰路にスクリューの形をしたこの島を回ってみた。途中から雨になった。平滑な水面に落ちる雨滴が星形を作って消える。海がおだやかなら雨の中を漕ぐのもいいものだと思った。
諸寄からわずかに漕ぎだした先にある無人浜
我が家の3世代でカヤック&キャンプ
ライフラインはないので、なにもかも自分たちでやるしかない。